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不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか 鴻上尚史 あらすじ、要約

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はじめに

特攻隊といえば相手の戦艦に爆弾を積んで片道の燃料だけでもう戻ってこない覚悟で攻撃するイメージですが、それを9回も生きて帰ってくるなんて何を思いそんなことができたのか?軍では絶対の命令に背き、自分の命を守り抜き、特攻を通して命を犠牲にする日本人の国民性から抜け出し、命の尊厳とは何か?を考えさせるその内容が書かれています。第一章は特攻兵佐々木友次さんを通してのドキュメンタリー。第二章は92歳になった佐々木さんにインタビュー。第三章は特攻の実情です。

帰ってきた特攻兵

太平洋戦争中に福岡県福岡市に「振武寮」という生還した特攻兵だけを集めた寮がありました。鹿児島県の知覧飛行場から出撃した特攻兵は整備不良、悪天候、不時着などで命からがら日本に戻ってきた兵士はこの「振武寮」に集められました。周囲は鉄条網で外部接触禁止の軟禁場所でした。特攻隊員が生きて帰ってきたと他の兵士が知ると戦意が鈍るので隠しておきたい、というのが理由かもしれません。陸軍の正式な記録に残っていない寮です。特攻隊は優秀なパイロットから選ばれました。絶対成果をあげる必要があるからです。出撃した佐々木友次さんは体当たりでなく急降下爆撃の後、不時着しました。戦艦を1隻撃沈しました。戻ってきた佐々木さんは9回出撃しましたが9回とも戻ってきました。その佐々木さんがまだ生存していて札幌の病院に入院していました。

佐々木友次さんは北海道札幌市に隣接する当別村に生まれました。幼少の頃定期便の飛行機を見るのが好きで早くから飛行機に乗りたいと思っていました。17歳の時、航空養成所入りました。佐々木さんはスマートな制服を着て民間機のパイロットを想像しましたが体罰主義の軍隊養成所でした。養成所を卒業して茨城県の鉾田陸軍飛行学校に配属、毎日急降下爆撃の訓練を受けました。そこでは優秀な成績を収めました。そこで、のちの万朶隊の隊長、岩本大尉も佐々木を可愛がりました。岩本大尉は操縦と爆撃の名手でした。ある日岩本大尉は3本の細長い槍が先頭から突き出た飛行機を見ました。それは明らかに体当たり用の飛行機でした。細長い棒の先に起爆スイッチが体当たりで押され爆発するものでした。体当たり用なので機銃も爆弾投下機も外されてました。陸軍の中から体当たりを主張する声が出始めてました。
岩本大尉は体当たりは生命と飛行機を無駄にし効果がないと考えていました。しかし山本さんと佐々木さんは「死の角」に乗って出撃命令が出ました。上層部は名手の岩本大尉が1番目の特攻隊になればもはや特攻しかない、誰も逆らわないという人身御供として選ばれました。万朶隊は鉾田飛行場から茨城県の各務原飛行場へ行き「死の角」の飛行機を受け取りました。
技術優秀なパイロットを万朶隊に選んだが有能なパイロットは優秀だからこそプライドがあり、数々の訓練を重ねてきたのに特攻はこれらを否定することでした。上層部は飛行機を体当たりするしかないように爆弾を機体に縛り付けて改装していました。しかし爆弾を手動で落とす方法を岩本大尉はこっそり教えられました。岩本大尉の万朶隊は博多の雁ノ巣飛行場へ飛び、博多の夜の街で最後の日本を見納めた。万朶隊は上海へそれから台湾へ到着、そこで最終特攻作戦をみんなに説明された。台湾での夜は豪華なものでこれが自分たちの異常な作戦であるのが現実であると感じた。1944年10月25日万朶隊が機体整備に手間取りフィリピンに出撃できなかった日、先に海軍の神風特別攻撃隊が出撃した。第一号と報道されたのは「敷島隊」五機で戦果は空母1撃沈.空母1撃破.巡洋艦撃沈1と発表されたが空母は全て護衛空母で弱い空母で正規空母でなく世間はゼロ戦一騎で正規空母を撃沈できるという「誤信」が生まれた。そして特攻は効果があると思われ推し進められた。新聞は敷島隊の大戦果を「身を捨てて神風となり国を救うとは崇高の極致でまさに神になった」という特攻隊のイメージを作り上げた。万朶隊はフィリピンのリパ飛行場に着いた。いよいよ最前線に来ました。佐々木は爆弾を手動で落とす方法を探し続けた。岩本大尉は独断で飛行機の爆弾を手動で落とせるように改装したと伝えた。岩本大尉は命が惜しくてしたのではなかった。命と技術、飛行機を最も有意義に使い、生かしたかったからでした。佐々木さんは一気に心が軽くなりました。岩本さんは爆撃の仕方を丁寧に説明しました。万朶隊は出撃命令を待ちながら急降下だけでなく着陸訓練も練習しました。佐々木さんは着陸訓練の意味を知っていました。岩本大尉は儀式好きの富永司令官にマニラに理不尽に呼び出されその帰り撃墜され死んでしまいました。岩本大尉は同じ死ぬなら有意義に死にたいという信念を持っていが、富永司令官の宴会のために呼び出され死んでしまいました。佐々木さんは無念で涙しました。佐々木さんは出撃し絶対に爆弾を敵艦隊に当てて帰るんだと決心した。
佐々木は敵揚陸艦を発見し爆撃し前もって地図を頭に入れていたのでミンダナオ島カガヤン飛行場に着陸した。戦果は軍に検閲され発表された。戦艦一隻、輸送艦1隻撃沈。「佐々木は戦艦に向かって矢の如く体当たりをして撃沈させた」と知らされた。
大本営発表の後ルソン島のカローカン飛行場に佐々木は着陸しました。死んだ本人が帰ってきたのでみんなは驚きました。佐々木は参謀から「天皇に報告したことは絶対訂正できない。天皇に嘘の報告をしたことになるから次は絶対に体当たりして死んでこい」と言われました。そして2回目の出撃が告げられた。しかし2回目は失敗して司令部は佐々木の生還を明らかにした。3度目の出撃命令が出た。出撃間際に爆撃を受け中止。次は佐々木一機で4度目の出撃になった。4度目も引き返してきた。5回目の出撃は壮行式のテーブルには酒肴は無しでバナナ一本だけがありました。佐々木は飛びながらバナナを食べた。アメリカの編隊を見つけると爆弾を海上に落として身軽になりネグロス島のバコロド飛行場に着陸した。司令官は激怒した。「どれでもいいから突っ込んで来い」と言われました。6回目の出撃では大型船を爆撃してその後ミンダナオ島のカガヤン飛行場に着きました。佐々木はこのころには「戦艦を沈めりゃ文句はないでしょう」という風に振舞っていました。7回目は離陸失敗。8回目出撃は戦果確認機もなく一機のみの出撃でした。かつては神様扱いしたのに今はその最期を見届けることさえしなかったことに佐々木は憤った。佐々木はたった一機で突っ込むのは何の意味があるのかわからず引き返した。9回目は飛び立ったがエンジンの調子が悪く、カローカンに戻った。その後高熱を出して寝込みました。アメリカの攻撃が激しくなると富永司令官は台湾に逃亡した。佐々木は台湾行きの飛行機に搭乗しようとしたが戦死扱いになっていたので搭乗証明書が出なかった。佐々木はフィリピンの山の中に逃げ込んだ。1945年6月25日大本営は沖縄の組織的戦闘終了、ポツダム宣言を受け入れ8月15日無条件降伏した。
佐々木はマニラ近くの捕虜収容所を経てカンルーバン収容所に送られ1946年1月6日マニラからアメリカの輸送船に乗り1月15日日本に帰ってきた。1月21日北海道の生家に戻る。

以上が鈴木さんの体験です。次に2015年92歳の鈴木さんのインタビューがあり、そして特攻の実情と戦争での嘘の情報と上層部の思考停止の内容が書かれています。そして日本人の国民性の主に悪い面が説明されています。

まとめ

他の太平洋戦争のもの、例えばカダルカナルやインパール作戦など上層部の無能がいかに犠牲者を増やしたか、という点では似通った内容ですが本書は佐々木さんをメインに特攻兵のリアルを書かれているところが他の太平洋戦争のものとは異なるところです。1回目の特攻は神聖に送り出されたけど、その後は何でもいいから死んで来い、挙句の果てに生きていられると都合が悪いから暗殺されかけるとか、本来の趣旨がズレていく異常さが本当に恐怖を感じます。戦争、特攻の実情を知ることができますがそこから学びをするとすれば何事にも物事には「そうする理由がある」ので、ただ言われるがまま、見たままだけでなく、なぜ、どうしてと言う思考をして疑問があればしっかり主張するべきところは主張することが大事です。上官の命令は絶対という常識に疑問を持つ、自分を持たずに流されていると、気つ”いた時には取り返しのつかないことになる教訓を学ぶべきです。これは現代社会にも通じるところです。組織を維持するために、人間の命を消費する傾向がある日本社会。これは学校から一般社会まで日本のありとあらゆる組織でこの構図は依然蔓延しています。

著者 鴻上尚史 1958年愛媛県生まれ 作家、演出家

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